第二章 とりあえず握手でもどうかな

1 「×××、あの××何処逃げ××××!」

 ばたばたと走る音が後ろから聞こえて、ぎゅっと唇を噛み締めます。あまりに酷いスラングで何を言っているのかわかりませんが、きっと私を探しているのでしょう。
 どうしてこうなったのでしょうか。自分はただ普通に市場を見ていただけですのに。
 確かに物珍しげな目でちらちらと此方を見てくる人も居ましたが、そんな事は普段からなので気にも停めていませんでした。
 もしかしたら、私の知らないところで何かやらかしたのかもしれません。あの人たちは、それを教えるために追いかけて来たのかもしれません。でも、今まで周りに居なかったタイプの人たちで、怖い。捕まったら駄目だと本脳が言っています。
 このままだと見つかってしまいます。逃げ込んだそこは突き当たりで、壁は大人の背以上にあります。出っ張りもありませんし、登って逃げることは出来ません。でも今出て行けば、自分を探しているだろう人たちに見つかってしまうでしょう。
 どうしようと周りを見回していると、ふっと影が自分を覆いました。

「××、××どうし×?」

 びくりと背が泡立って、慌てて声の方を見ました。
 そこには、高い壁の上にしゃがんでいる子供が居ました。一瞬自分を探している大人かと警戒しましたが、その姿にほっと息をつきます。
 彼──彼女──どちらかわかりませんが、その子供は自分と同い年くらいのようでした。くりっとした大きな瞳に、さらりとした艶やかな髪は後ろで一つに縛られています。服装からすると男のようですが、確かここでは女もズボンを穿いて親の手伝いをすると聞いているので、本当にどちらかわかりません。

「××? どう××××? あ、もしかしてわか×××? ……えー、あー、……どうしました?」

 無反応だったためか何なのか、その子供は不意に綺麗な言葉を使いました。やっと訛りのない滑らかな“理解できる”言葉が聞こえてほっとします。ここも言語は同じだと聞いていますが、聞いたことのない言い回しや表現、言葉の速さに耳がついていけないのです。

「ええと、すみません。実は私もよくわからないのですが、追われているようで」
「は? 追われて××? ××××……、ええと、あ〜、……何を……したのですか?」

 また理解できないのに気付いたのでしょう。その子は私の表情を確認して、ちょっと困ったような顔をしたと思えば、頭を掻きながらまた言い直しました。

「いえ、私にも何がなんだかさっぱり……」
「あ〜、そうなんですね。……追いかけてきている人は知っている人ですか?」
「いえ、知りません。市場を見ていたら、声をかけられて。腕を掴まれそうだったので、避ければそのまま何かを言いながら追い掛けてきて……」
「は〜××××××……」

 こんな子供に事情を説明しても仕方の無いことだとわかっていますが、やっと言葉がわかる人に出会えたので口が緩んでしまいます。
 その子は何かを呟いたかと思うと、そのまま壁から──こちらに向かって飛び降りてきました。

「なっ!?」

 咄嗟に両手を出しましたが、まるで羽根がついているような軽やかさでその子は着地し、くるりと此方を振り向きました。
 ほぼ同じ高さにあるその瞳に見つめられ、少しドキリとしてしまいます。

「逃げましょうか」
「えっ?」
「あとで説明します。とりあえず僕に任せてください」

 その子はにっこりと笑うと、徐ろに私に向かって手を伸ばし──先程の大人に感じた不快感が今回はありませんでした──そのままひょいと私を持ち上げました。

「はっ!?」
「しっ! あまり声を出さないでください。見つかりますよ」

 はっとして口を閉じます。
 そんな私を見てこくりと頷いたその子は、私を肩に担ぎあげました。視界がその分高くなり、こんな同い年であろう子に担ぎあげられるなんてと少しだけ呆然としてますと、表の声が近くなってきました。

「ど、どうするんですか? 表に出て行けば捕まってしまいます! 何か私が悪いことをしたのでしたら謝りに行きますので、どうか通訳をお願いしたいのですが」
「はぁ? ××言う××。……っと、そんな必要はありません、逃げます」
「だからどうやって──」
「おっと、こんな所に居××金×××××××」

 見つかってしまいました。
 強ばる身体に、私を抱えている子が「チッ」と何か音を零します。くるりと身体の向きを変えられ、抱えられた私は大人に背中を向ける形になってしまいました。

「よーお××××××。残念×××××? ××××遅××××××××」
「あぁ?」

 その子が何かを大人たちに告げると、ぶわりと怒気が襲ってきました。一体何を言ったのでしょうか。
 そしてその子は私を抱えたまま、軽くしゃがみ込むと──

──飛んだ。

 いや、正確には“跳んだ”のでしょう。でも、飛んだとしか表現ができないほどの勢いで地を蹴り、眼下に壁の向こう側と呆然と見上げる大人たちが広がって──

──私は意識を手放しました。





「……ーい、おーい」

 誰かが何かを呼ぶ声が聞こえます。
 アスがよく私を遠くから呼ぶ時にこんな掛け声でしたねと少しだけ楽しい気持ちになりました。

「……ぞくさま〜? うーん、×××駄目××」

 頬を軽く触れられる感覚と、早口と訛りでよく聞き取れない声が耳に入ります。先程の呼ぶ声と同じ声ですが、そこには何か呆れたような、途方に暮れたような響きがありました。
 王宮でこんな話し方をする人はいません……あれ……? 私は……?

「っ!」
「うおっ! 起××!」

 がばりと起き上がれば、私に覆い被さっていたと思われる子が慌てて飛び退きました。急に飛び起きたにも関わらずぶつかりはしなかったため、余程反射神経がいいみたいです。
 急に起き上がったためか、少しだけ頭痛がします。額に手をやると、それを見たその子──先程の声の主でしょう──­­が、用意してあったのか水を出してくれました。

「綺麗な水です」
「あ、はい……ありがとうございます……」

 その手から水を受け取りましたが、ふと口に運ぶ前に手を止めます。固まってしまった私を不思議そうに見ていたその子は、何かに気付いたように私が持っていたコップを奪い取ってしまいました。
 あっと止める間もなく、その子はコップの中の水を私の目の前で一口飲みます。

「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」

 再度受け取り、今度は躊躇い無く水を飲みます。思いの外喉が乾いていたようで、全て飲み干してしまいました。
 やっと落ち着いた心地になり、自分の状況を理解すべく辺りに視線を巡らせます。

 そこは虫小屋程の広さしかない小さな部屋で、私はその角にある布団に寝かされていたようでした。右角は内側に四角く欠けており、そこに小さな物置があるのか、扉が付けられています。
 左の壁にも扉があり、奥の壁には何かよくわからない物が沢山置いてありました。部屋の中心には、これまた小さな机と椅子らしき物があります。
 全体的に小さいですが、恐らくこれが“ここの普通”なのでしょう。本当にこんな狭い空間で人が生きていられるのか不思議ですが、でもそれを言うと駄目だということは学んでいます。

 キョロキョロと物珍しそうにしていたのが面白かったのでしょうか、水を渡してくれた子はくすりと笑いました。そうしてそっと、私の手から空になったコップを取ります。

「おはようございます。ご自分がお倒れになられる前に何があったのか覚えていらっしゃいますか?」
「はい……」

 そうです、私は確か大人に追いかけられていたところをこの子に助けられて──……。
 そこまで思い出して、さっと姿勢を正します。見るからに相手は市井の者ですが、礼儀は必ずしなければなりません。

「すみません、助かりました。このお礼は必ずお返しします」
「ああ、良いですよ別に。困っている時はお互い様です」
「……? ありがとうございます」

 なにやら不思議な言い回しですが、気にしなくていいようです。正直、抜け出してきたのでその心遣いは助かります。
 へらりと緩んだ笑顔でひらひらと手を振り、その子はコップを向かいの壁にある小物が置かれたところへと持って行きました。小さ過ぎてわかりませんでしたが、どうやら炊事場のようです。炊事場と寝室が一緒になっているとは、なんて小さな部屋なのでしょうか。

「ええと……、お名前を伺っても?」
「あ、これは失礼致しました」

 大きな礼にはならずとも、個人的にこっそり物を持ってくるくらいならできるかもしれません。とは言え、恩人の名前すら知らなければできるものもできないでしょう。
 こちらに背中を向け、コップを片付けていたその子は慌ててこちらを振り返りました。頭の下の方で一つに縛られた、背中の中ほどまである綺麗な髪が動きに沿ってさらりと舞います。髪先まで手入れされているであろう艶のある髪に、つい目を奪われてしまいました。

「僕のことはアレクとお呼びくださいませ」

 そう言ってその子──アレクは、にっこりと笑いました。

「アレク……アレクですか。ありがとうございます。助かりました」
「いいんですよ、そんなに何度も仰らないでください。お貴族様にそんなこと言われちゃうと居心地が悪くなります」
「えっ!?」

 思わず声を上げてしまって、慌てて両手で口を抑えます。
 そんな私の行動が不思議だったのか、アレクはぱちくりと瞬きをして、首を傾げました。
 大声は如何なる時もあげてはならないと教えられていた私は思わず口を覆いましたが、今この場に先生は居ないことを思い出し、恐る恐る手を離します。そして、未だ不思議そうに私を見つめているアレクに、ゆっくりと疑問を口にしました。

「ええと……どうして、私が貴族だと?」
「えっ」

 私の問いに『心底驚いた』という表情をするアレクは、またぱちくりと瞬きをします。そしてあー……、と言いながら気まずそうに頭をかくと、苦笑しながら「ええと……」と言葉を続けました。

「まさか、気付かれてないと思ってらっしゃいました?」
「……はい」
「いやぁ、×××! あははははっ!」

 すると、いきなり笑いだしたアレクに、逆にこちらが呆然となります。
 あまりの驚きで笑い続けるアレクを眺めていましたが、だんだんと理不尽に思えてきて、むっと眉根を寄せました。

「何がそんなに面白いのですか!」
「いやぁ……はは、ごめんなさい。本当に×××××なのですね」

 笑い過ぎて涙が出たのか、アレクは目元を指で拭いながらようやく笑いをおさめます。そして少しだけ思案するように斜め上に視線を投げたあと、急に真面目な顔をして私を見ました。

「すみません、湾曲的な言い回しは得意ではありませんので、直接的に、はっきりと申し上げても?」

 その発言に首を傾げますと、「失礼なことを言ったと罰せられたくはありませんので……」と苦笑したので、なるほどと首肯します。
 市井の者を守る立場ではありますが、守るべきその命は軽い。正確にはまだ私も大人に護られる立場であるので、市井の者と何ら変わりないと思うのですが──そうではないと諭されたのは、少し前の話です。

「大丈夫です」
「少し口が悪くなってもよろしいですか?」
「ええ、……私が理解できる範囲で、お願いします」
「ああ、そうですね、わかりました。では早速」

 ぴ、と右手の2の指だけを上に向け、他の指は握り込んだ状態の手を目の前に突き出し、「まず一つ目」とアレクは言いました。

「ここの言葉が通じないこと」
「……いや、通じていないわけでは……」
「でも訛りとか速さがあって聞き取れてないですよね? 例え×ほら、こうやって××××だけ速く喋×××××聞こえ×××××? ……今僕がなんて言ったかわかりました?」
「……」
「ほらね。これで少なくともここの人じゃないってことがわかります」

 因みにさっきの速さと訛りはここでは普通ですよ、と続けたアレクは、次に3の指を上に向け、二本を拳から出した奇妙な形の右手を掲げます。

「次、二つ目。さっきのとほぼ似ていますが、言葉遣いが丁寧な挙句訛りがない。幾らここの出身でなくとも、言葉遣いは乱れているものです。特にお貴族様の……ええと、失礼ですがご年齢は?」
「今年で8歳です」
「8歳ですか。×××××××……、私と同い年ですね!」

 途中で何を言ったのかわかりませんでしたが、同い年ということに意識を持っていかれる。多分同い年だろうと思っていましたが、本当に同い年だと知れば、少しだけ距離が近くなったように思えました。

「失礼。えーと、それでですね。8歳ならば普通は言葉遣いが乱れているものです。大声をあげたり、笑ったりするのは当たり前だし、思いっきり泣いたり……は、まあ人によるのでわかりませんが、転んで泣いたりしますよ」
「そんな事をして許されるんですか?」
「……ええ、まあ。というか、皆感情の赴くままに行動していますよ」
「感情の、赴くままに……」

 思わず呟けば、何故かアレクが悲しげに顔を曇らせます。感情を出してはならない、隙を作ってはならないと教えられ自分を律することを“普通”としてきましたが、ここではそれが“異常”であるみたいです。やはり、自分の常識である貴族と、市井の常識は異なるようですね。学んでいたとは言え、同年代の子供についてまでは知りませんでした。
 なるほどと関心していると、ふっと頭上に影が落ちます。気付かない内に俯いていたようです。
 そして、頭に何かが乗ったと思えば、その何かがゆるゆると左右に揺れます。顔を上げると、少しだけ困ったような表情のアレクが目の前にいました。何が頭に乗っているかと思えば、それは彼の右手のようでした。感覚的に、手のひらを置いて……動かしている……?

「……何をしているのですか?」
「頭を撫でています」
「……頭を撫でる……?」
「えっまさかこれもわからない!? 想像以上に身分の高いお貴族様!? それともお貴族様は頭を撫でたりしない!? ××××、これ無礼に値す××××!? や××××っ!?」

 あっと思う間もなく、頭上にあった手は外されてしまいました。
 それに何故か少しだけ寂しく思えてしまって、自分のその気持ちに困惑します。

「えーと、……申し訳ございません」
「い、いえ。別に怒ってないです。……ええと、今のは……?」
「今のは……うーん、親が子供を褒めたり、宥めたりする時の触れ合い……ですかね? お貴族様はあんまりこういうことなされないかもしれませんが、ここではさっきのように頭に触れたりとか、抱き上げたりとか、夜一緒の布団で寝たりとかしますね」
「そ、そうなんですか……」

 あまりの違いに、何度目かわからないほどの困惑が私に降りかかります。親と子の距離が近いのは、物理的だけではなく心理的にもなのですか。
 私は年に三度ほどしか、親に会えないのに。……人になってからはそれでも多少マシにはなりましたけど。──マシになって、三回だ。
 人との触れ合いなんて、衣服の着脱と風呂、剣術の稽古くらいです。私はそっと、先程撫でられたばかりの頭に手を乗せます。
 すると、アレクは恐る恐る「大丈夫ですか?」と問うてきました。その目には心配の色が宿ります。

「え、ええ……大丈夫です」
「そうですか? すみません。急に触って不快でしたよね。とんだ無礼を働いてしまいました」
「……それを言ってしまえば、あの場から逃げる時に問答無用で私を抱え上げたほうが無礼なのでは?」
「……あれは緊急事態ですので、いいんですよ」
「いいんですか?」
「いいんです」

 心配そうな顔をしていた筈のアレクが、きりっとした顔で言い切るので思わず笑ってしまいました。

「あっ!? なんで笑うんですか!」
「ふ、ふふ……し、失礼。面白くって……ふふ」
「酷いですよー!」

 止めようとしても、何故かなかなか止まりません。そんな笑いにまた面白くなって、笑ってしまいます。
 そんな笑いの連鎖に一人陥っているのがわかったのか、アレクは不満そうな顔からじわじわと表情を和らげ、仕舞いには私よりも大声で笑い出していました。

「ははははは! もうっど×だけ笑って×××!」
「ふふ、な、何言ってるのかわかりませんよ……ふふふ」
「えー!? ×××!? もー、お貴族様はこれだからなぁ! あはははは!」
「ふふ、ふふふっ」

 それから暫く二人で笑って、何が面白かったのかすっかり忘れた頃。
 目元に滲んだ涙を拭いながら、「あー、笑った笑った」とアレクが言って、そしてにやりと不敵な笑みを見せます。

「途中でしたけど、まだあなたが貴族だとわかる理由がありますよ」
「えっまだあるんですか?」
「勿論。えーと、……あー、もう何個目とか数えるの面倒だな。まず所作の優雅さだろー、着ているものの小綺麗さに、汚れを知らない白い肌、艶やかなその髪! 服はまあ、もしかしたらちょっとした大きい商家のお坊ちゃんくらいで通るかもしれないけど、あまりにも言葉遣いとか歩き方とかが綺麗すぎるからね。そういうところ全部引っ括めて貴族にしか見えない! 正直それでこの街の子供だって擬態してるつもりだとしたら笑っちゃうね!」

 びしりと私を指差し、高らかに宣言するアレクのその言葉を聞いて──私はがくりと肩を落としました。

「……本当に最初から駄目だったんですね……」
「うん。あ、あと気付いてなかったみたいだけど、あの時追ってきてた人たち、あなたを拐おうとしてたんだよ」
「えっ!?」
「市場で声をかけられたって言ってたよね? 多分元々目をつけられていたんだろうと思うよ。あなたのその服はどう見ても高価だ。まあ、誘拐して身代金……とか考えていたんじゃない? それか、まあ余り考えたくはないけど、奴隷として売られる……とかね」

 肩を竦めながら言われた言葉に、血の気が引きます。
 奴隷は禁止にされている筈ですが、未だこの街には蔓延っているらしい。それを聞くと、「え、禁止だったんだ? でもここでは普通にいるよ」と言われ絶句しました。

「そう……だったんですか……、この街の統治者はどなたでしたっけ……」
「うーん……誰だっけ? サリクタの……どこかだったと思うけど。忘れた」

──サリクタ……、ガルではないでしょう。ガルの管理が及びにくい分家とすれば、かなり外れているはず。ニルかミンのどちらかとして、それとなく調べるしかなさそうですね。

 私が黙って考えていると、アレクは「で?」とベッドに腰掛ける私の隣に座りました。

「お貴族様そろそろ帰らなくていいの? それとも迎えがくる? 来るなら待ち合わせ場所まで送っていくけど」
「ええと、いえ。こっそり出てきたので、こっそり帰ります」
「はは、いけないんだ〜」

 アレクはにやにやとアスがよくする笑顔を浮かべ、軽く私の肩を叩きました。このような気安い触れ合いも、5歳から側付きになったアスから受けたことはありません。

 訓練の時も皆、私にだけ特別扱いをします。
 そう、私にだけ。

「っと、じゃあどうする? あれから一時間くらいしか経ってないけど、完全に撒けてるからもう心配はないよ。しばらくはあの市場の近くに近寄らない方がいいと思うけどね」
「あ、そうですね」

 また考えに浸っていると、アレクはこちらに気を使いつつもさり気なく話を続けてくれます。
 考えに集中してしまうのは私の悪い癖です。考えなくとも反射的に最善案を言えるように訓練してはいますが、まだまだ力は及びません。

「こっそり家を抜け出して来たってことは街を見て回りたかったんだよね? 僕もそんなに詳しいってわけじゃないけど、よければ案内しようか? それか、大通りまで連れてってあげるけど」
「あ、じゃあ案内お願いできますか? ……あ、それと」

 急に言葉を区切って立ち上がった私に驚いたのか、アレクはその大きな瞳が零れんばかりに見開きます。……少し、可愛いと思ってしまったのは内緒にしましょう。

「自己紹介が遅れました。私はガル・ワガンダ=ジェラルドと申します」

 そう言って、右手拳を額に当て、続けて胸の中央に当てた後、左肩に手のひらを当てたまま深々と頭を下げます。心の中で二秒数え頭を上げると、ポカンと間の抜けた顔をしたアレクがいました。
 呆けたようにこちらを凝視するアレクに少しだけ居心地の悪さを感じていますと、アレクはさっと顔を背けて何かをブツブツと言い出しました。

「……──……───……」
「あの……?」
「ああ、いや。なんでもありません。やっぱりお貴族様なんだなぁと驚きまして」

 少しだけ聞こえた言葉は、響きが全く異なるものでした。多分、この街の方言なのでしょう。
 さっきの礼の仕方のことかと思い口にすれば、そうだと頷かれました。どうやらここでは、自己紹介をする時は笑って握手をするらしく、頭を下げるのは謝る時なのだそう。

「ああ、なるほど……なら確かに驚きますね」
「そうそう。……それに、もしかしてなんですけど……さっきのって……本名だったりします……?」
「? そうですよ」

 頷けば──何故かアレクは大きなため息をついてしまいました。あまりにも大きなため息で、何か知らない間に失礼なことをしてしまったのかと焦ってしまいます。

「え、あの、私何かおかしなことをしてしまいましたか……?」
「あ〜いやそうじゃなくて……そうだとは思ってたけど……」
「……?」
「……いや、これはまあ僕の勝手な思い込みかもしれないんですけど、お貴族様の……えーと、ガル・ワガンダ様の身分って高いんじゃないですか?」
「……まあ、そうですね」

 市井の人たちには家名──苗字がありません。だから家名に馴染みがないのか、少し戸惑っているように見えました。

「僕はお貴族様のことよく知らないんですけど、そんな簡単に本名教えちゃっていいんですか? 普通こういう時、偽名名乗りませんか?」
「ああ、そういう事ですか」

 確かに、こういうお忍びの時や名前を知られてはいけない時、相手の身分が不確かな時は安易に名乗ってはいけないと教えられています。基本名乗る時は、精々仲介役に紹介された後です。
 ですが。

「確かにそう教わっていますが、あなたは恩人ですので」
「……いや、恩人でも駄目でしょう」
「騎士の教えに反しますので」
「…………」

 流石に、恩人に偽名を使うわけにはいけません。それでなくとも、正直目の前のただの少年であるアレクに名前を知られたからと言って、脅威になりえるわけがないと思ったのです。

 ……こういう思考になる自分が、嫌になります。

 アレクはしばらく私を見つめたかと思えば、また大きなため息をつきました。

「わかりました。じゃあガル・ワガンダ様。これから街を──」
「ジェラルドです」
「え?」
「ジェラルドと呼んでください」
「え? いやいや、流石にお貴族様のお名前をお呼びするのは──」
「家名で呼んだ方が貴族のバレるのでは? ああ、それならジェラルドも本名ですからあまりよくないかもしれませんね。ええと……ジル……ラルド、ルド……どれがいいと思いますか? ああ、あとその丁寧な話し方もやめてもらっていいですか? 先程の少し砕けたような、乱雑な話し方で結構です」
「乱雑って……いや×××に××××言葉使っ××聞×××××××……」

 私の申し出に困惑した表情を向けるアレク。
 なかなか次の言葉を言い出さないため、そっと彼の右手を握りました。所謂握手です。それに驚きの表情を見せたので、私はにっこりと笑います。

「ね? よろしくお願いします、アレク」
「…………あなた、意外と強情なんだね」
「そうですか?」
「…………はー、わかったよ。でも本当にここの訛りと話す速度にすると聞こえないだろうから、比較的丁寧に話すね。これでいい?」
「……! はい!」

 嬉しくて、思わず握手していた右手に左手を添えてしまいました。両手でアレクの右手を握りしめる私に、苦笑を零しながら「で、」とアレクは言葉を続けた。

「いつもはどう呼ばれてる?」
「え? ええと……」
「仲のいい人とか友人とか両親とか。その人から親しみを込めた×××……わからないか、ええと……ジルとかラルドとか、そういう名前を短くした呼び方だとどう呼ばれることが多い?」
「そう、ですね……」

──名前で呼ばれることなど、ほぼありません。

 神の子であった時の方が、記号とはいえ呼ばれていました。人間に成ったほうが名前を呼ばれなくなるなど、あの時は露ほど思っていなかったのですが。
 黙っている私に何を思ったのか、アレクは顔を歪ませ、握られるままだった右手に力を込めます。その力が思いのほか強くて、目が覚めたように顔を上げました。気づかない内にまた俯いていたようです。

──短縮した名前……ああ、そういえばアスが時々……私たち以外誰もいない時に呼んでた名前がありましたね。

「ジルと、呼ばれているかと」
「そっか。じゃあ──ルドって呼ぼうかな。よし、ここでのお貴族様の名前はルドで!」
「えっ?」

 いつも呼ばれている名前を聞かれたのですから、その名前を使うかと思ったのだが違うようです。聞けば、『普段から呼ばれてるような名前をここで使ってたら偽名の意味がないから』だそうです。
 よしじゃあ改めて、とアレクが言ったかと思えば、握ったままだった手に左手を添えて──両手を取り合っている形になったかと思うと、アレクは万遍の笑みを浮かべました。

「僕はアレク。よろしく!」
「……! ……私は、ルド。──よろしくお願いします」


 そうして改めて自己紹介を交わした私は──



今後も、アレクとの関係が続いていくものだと。





信じて疑わない、哀れで無垢な子供だったのだ。




...19/06/19





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